昭和46年2月13日 朝の御理解
御神訓『神は声もなし 形も見えず 疑わば限りなし 恐るべし 疑いを去れよ』
ござるかござらんか信心してみよと。もちろん信心というのは、私は、他の信心を知りませんけれど、まあ、いわゆる金光様のご信心。言うなら「真の信心」「真の道」ね。
信心、まあ信心とは「真心」または「神心」ね。真の心と、そういう心。そこで私どもが、信心をするということは、信心修行するということ。それこそ信心修行をして分からせて頂くことはどういうことかというと、ね。なるほど、神様の言わばお働きというものを分からしてもらうという、その事を修行とする。この信心すると、一遍は例えば拝んでみたり、お参りをしてみたりして、そういうふうな信心してみなければ分からない。信心修行をしなければ分からない。
そこに、私は、お道の信心は、お参りをする、お礼お願いをする、けれども、それが自分の思うようになるということではない。けれどもそこに、何とはなしに、有り難いという心が頂ける。信心をしなかった時では分からない心。ね。何とはなしに有り難いと思う心。
その何とはなしに有り難いと思う心が、次第に清いものになる。いわゆる「真に有り難い」ということになる。その有り難いという心で神様をキャッチするのだと。
その、(北野の?)麻生さんがお参りになって、先生昨日、最近のご信心ですから、それでまあ言葉といったものの、(間違えませんから?)、まあお気付けという意味でしょう。じゃぁ、まあ、罰かぶったといったような意味のことを話しておりました。
それでもうお参りさせて頂いて、(よるのですが?)くにのほうへまいりましてから、もう何かほんとうに寄り、寄らにゃすまんとか、また寄りたいという気持ちもあったけれど、何て事のない悲しい時の神頼みで、何遍と参ってくる、(われわれはごたったから?)ご無礼して帰ったと。
ところがもう、その晩早速その、始めて、だいたい心臓弁膜症という病気を持っとられます。始めてでしたけれど、いわゆる呼吸困難になった。とうとう医者を呼んで、注射をしてもらうというように、夜中にそういうふうになった時に感じました。やっぱり神様っちは、まあ、御覧ということ。ね。言わば、少しご無礼さして頂いたら、もうすぐこうしてお気付けを下さった、という意味のことを言っておられました。ね。
ですから、おかげを頂いて信じるということももちろんですけれど、ね。それとは反対の、ね。神様のお叱りを頂くといったようなことでです、神様が分かるということ。そこのところがね、私は両面が、あの、必要なように思いますね。
信心がだんだん、まあ緩んでくるというか、おろそかになってまいりますと、ね。神様から間違いなくお気付けを頂いておりましても、あの、お気付けをお気付けと感じんようになります。ね。そこで信心は、「神様っちゃ有り難いお方じゃなぁ」と分からして頂くということは、ね、おかげと思わなければおれんほどしのおかげを受けるからでしょう。と同時に、「神様とは、また恐いお方じゃなぁ」と分からして頂く信心でなからなければ、また戻ると言われております。
神様が、私どもが有頂天になって喜ぶようなおかげばっかり下さりゃいいのだけれど、そうではなくて、反対にもう、少し間違や少し、大きく間違や大きくお気付けを下さる。
昨日、美登里会でございました。(?)の高芝さんの奥さんが、まあ毎日お父さんが( ? )ほいで自分がその留守番役ですから、月に言わば一回しかお参りができん。それでいつも美登里会の時だけしかお参りができん。まあそれが楽しみでお参りをしてくるわけです。
それで昨日お参りをしてきてから、私がちょうど、お参りをして来られる時に、ここでちょっと書き物をしておった。その書き物をしておることが、どういうとこであったかというと。例えばあの、お月次祭の時に、( ? )お祓いをいたしますね。ね。それをその、罪の意識というものがなかったらね、お祓いは受ける必要はないといったような意味のことが書いてあるのを、まあ、これはなかなかいいことを書いたなぁと思て、書きよるところへちょうどお参りをしてきた。
「罪の意識」ね。まあ、お道の信心では、「罪」というような言葉はありませんよね。まあ「罰かぶる」というようなこともありません。ね。もう「罰を当てる暇があるならおかげをやる」と仰せられる神様ですから。ですからその、言うならば、お気付けを罰と言うたら罰ですけれどもね。そのお気付けとてもだから、おかげとして頂くのがお道の信心であるかと。ね。
ですから、そういうあの、罪の意識というものがなかったらお祓いは受ける必要はない。「自分は足元汚れとらん」と思う者はお祓いを受ける必要はない。その代わり、神に近付く事もまたできない、というようなことを書いた。ね。
私は別に何も悪い事はせんから、と例えば言う人は、信心にはなれません、ほんとの信心には。ね。それをちょうど、書いておる時でしたから「これは高芝さん、あなたが頂かにゃんとじゃろう」というて、書いたのを渡しました。
そしたら高芝さんが「もうほんと親先生、危ないことで私も、こういう気持ちになろうとしよるとこでした」とこう言われる。実はあの、寒修行明けの朝、前の日に、高芝さんが参って来る時に、「明日はお礼の御祈念をさしてもらうから、(総代さんということでもあるけんで?)明日、朝の御祈念においで」ということを言うて、「まあそれじゃあお参りさしてもらいましょう」ということになった。
ところが、そのちょうど時間に用があってその、起こされて、慌てて起きてその、ドアを開けた瞬間に、ドアのぎりぎりのところで、胸をそれこそ息ができんほどに打った。それから今度痛み出した。熱が出てきた。その為に、お父さん、朝参りをしようと思うとったけれど、とうとう朝参りもできなかった。ね。
それで、それはもうお気付けを頂いておること( ? )まあ後から参ってるから、高芝さんに申しましたら、「お前、お気付け頂いとるとげなよ」ってから、お母さんに言うた。ところが、「私がどうしてお気付け頂かんならんですか」って言うた。「もうそれこそ朝から晩までお参りしようと思うても、お参りができんぐらいに忙しい。あなたが毎日お参りしなさっとに、為に私はどのくらい家で修行しよりますか。そんな私が、あなたお気付け頂かんならんはずがないじゃないですか」と。ね。
だから、そういう時には、もうお祓いを受けんと、自分はもう立派だと思っとります。ね。ところがその、もう自分が立派だ、と思うた時には、すでに神様に近付く事はできない。
ところがそこから、やはり日頃の信心を頂いとりますから、まあ、何時間かの後には、「あげな事言うたばってん、やっぱお気付けじゃった」とこう感じたと言うのです。それでここに、昨日は参って来て、参って来る、参って来る途端にその事を頂いたですから、昨日、最後に高芝さんが発表されておられるのは、もうそれが一番実感的なものだったらしい。
「私はほんとに、ようお参りもできんし、お参りも修行もできませんから、お気付けを頂いても、すぐ、はあお気付けを頂いたというふうに頂けなくなっておったのが、今日改めて、また改めて神様がお気付けを下さったんだということが分かった」というような発表をして、した後に帰られた。ね。いわゆる神様をいよいよ信じてきたわけであります。ね。
それこそ、神様へ心を打ち向かわせ頂いておる時には、ね。ちょっとそれこそ、けつまづいても、壁で頭を打っても「すいません」という言葉が、心から出るはずなんです。「こんなんここに置いとるけんけつまづく」と言うてから、言いよることない。「ああ痛いよ」ち言うてから、鴨居でも叩くような人もある。なんと言うか鴨居が悪かと言います。ね。
私どもがね、いつも自分というものをやはり分からして頂くということ。そこから、私はいつも、お祓いを受けさせて頂かなければ、ね、おられないということ。言うならば、お気付けを頂くということは、ね、神様が罰当てられるのではなくて、清めて下さりよる姿である、と知らなければいけません。
「ああ痛いよ」じゃない。けつまづいて、こげなもんばここに置いてるからじゃない。いやと言うほど胸を打ったら息ができんごとあった。それから熱が出た。ね。「どうして私がお気付け頂かんならんか」と言う時には、もう神様は遠のいてござる。ね。ほんとに、お気付けを頂いたという時に、心の中に感じるものは何かというと。「相済みません」というだけではなくて、「神様っちゅうお方は有り難い方だ」ということが分かった。ね。このように厳しくお育てを下さっておると( ? )このような思いで自分を見守っておって下さるということが分かる。
夜、麻生さんがお参りさしてみえて、その事を言っておられました時に、私は、まあ申しましたことでした。
今日私、読み物をさして頂いとりましたら、ある学院生の方が、今、こういうことで、こういう問題に取り組んでおるという発表をしておるのを読ませて頂いた。
学院という所は、朝から晩までが拍子木。ね。いわゆる朝目を起こす、起こされるのも拍子木の音で目を覚ます。休むのも。ほら食事の準備がでけたというのも、拍子木で。いくつになったら起きらんならん、いくつなったら寝らんならん。いくつなる時には、もうご飯の準備ができた時だというふうに言うておられます。
今までは何気ない、ただもうご飯の準備ができたから、というて食堂に入りよったけれども、ある時ふと思たことは、それは、ね、拍子木が鳴る、食堂に行くとちゃんとご飯がついで待ってある。いわゆるご飯が食べられるとです。拍子木さえ鳴ればご飯が頂けれるということは、これは、たいへんな事だろうと思うた、とこう言うておられる。
もし自分が学院を卒業する、修行が終わったら、どっか布教に出らなきゃならない。その布教に出らなければならない、いわゆる信者もいない、まだ、あれ、まあお参りもないといったような中でです、ね。布教に出らなければならない、その布教所に拍子木はないっち言う。「はい、ご飯ができましたよ」と言うて知らしてくれるものがない。ということはね、これはたいへんな事だと気付かせて頂いたら、ね。ご飯の盛りの多いの少ないの、甘いの辛いのなんかは、もったいのうして言えなくなったと、ようなことを気付かせて頂いたと、発表しておるのを読ませて頂いて、私も感じ入った。そしてその事を、また高芝さんに申しました。
何気ない、もう当たり前の事のように、言わば息をさせて頂いておるいうこと。ね。それが、んなら、「昨夜あなたは、言わば、( ? )息が詰まるほどに、いわゆる呼吸が困難になった時にです、もうあなたは、ね、今日からもう、こうやって息をさせんで、言わば呼吸ができておるということだけにね、おかげを受けておると思うて、お礼を言うて行きなさりゃ、もうおかげ頂きなさいますよ」ちゅうてから、「ほんなこ、そうですね」ね。
そこから分からせられるものがです、「なるほど自分で呼吸をしておるとじゃないなぁ、自分で生きておるとじゃないなぁ、生かされて生きておるんだなぁ」ということが分かる。私はこのように間違いのないことはないと思う。ね。
例えばそういうたいへんな、広大なおかげの中にある事実でもです、私どもの心が神様から遠のいておる時には、それを当たり前のようにしか思わない。今日も目覚ましのおかげを頂いて、ということは、今日もお生かしのおかげを頂いておったということです。だから、そういう事実、そういう間違いのない事実をです、私どもがね、神様のおかげで、と信ずる事ができるようになる。たら、願うたが、右になった左になったというような事で、一喜一憂することもなからなければ、ね。神様をもう信じなくなったというようなことは、ないで済むおかげを受けられると思う。ね。
とにかく、例えばおかげを頂いて、大小便なんかもほんとに気持ち良う、気分良うやらせて頂けるということ。で結局、小便その詰まりでもしてみてから、始めて気持ち良く小便ができておることが有り難いと分からして頂く。ね。いわゆる生かされて生きておる事実をね、私どもが分からして頂く。
私、お道の信心のね、いわゆる「神様を信ずる」ということはね、そういうようなところを私分からしてもらう、信じさしてもらう信心にならして頂かなきゃならんと思う。ね。
「神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ない」と。神様を信ずる氏子は、だんだん多いけれども、神から信じられる氏子が少ない。ほんと言うたら、神を信ずる人もだんだん、いよいよ少ない。その証拠に、不安があり、焦燥、心配があるじゃないか。神様を信じておれば、不安も心配もないはずなのに。
ですから、「自分は神様を信じておる」という、信じておる、言わば、( ? )というものを自分で分からしてもろうて、このくらいしか神様を信じとらんものだから、神様がこの程度にしかおかげを下さらんということが分かる。「神を信じる者を信ずる」と。
そこで、神様を信じさせて頂く、疑う余地のないほどしに、言わば、体験をもって分からして頂くということと同時にです、ね。自分自身が神様から信じられる私になる精進を本気ですること。ね。そこに教えがある。神に信じられる氏子。この氏子には間違いがない、ね。いわゆる実意丁寧神信心がそこに必要になってくる。そこから神の信用、神から信じられるおかげが受けられる。ね。
神から信じられるということは、ね、お徳を受けるということなんです。「徳のない間は心配をする。身に徳を受ければ心配はない」と、ね。いわゆる「絶対信」というのが生まれて来る。信心生活とはね、その絶対信を求めての信心。どのようなことがあってもです、ね、「おかげぞ」と言えれる信心。ね。「さあ、困った事が起こった」と例えば家内が騒いでおっても、なら主人の方の信心が、確固たるものができとりゃ「心配する事はいらんぞ。それはおかげぞ」と言えれる信心。
徳のない間は慌てる、心配をする。「身に徳を受ければ心配はない」というおかげが頂けてくるようになる。ね。それを「絶対信の生活」とこう。そういう信心生活をお互いが目指しての、信心の修行であり、稽古でなからなければならん。
ところが、ただおかげを頂きたい為の修行である。ですから、自分が思うた通りにならんと、もう神様も信じられんようになるということになる。「神様もいい加減なもんだ」というようなことになる。ね。
ですから、もちろん、なるほどそれでおかげを受けます。おかげを受けますから、有り難いのですけれども、ね。けれど、そこのところが目的であってはならない。「神は声もなし 形も見えず」ほんとその通り。ね。疑えば限りがない。それが信心、それが神様。「恐るべし 疑いを去れよ」ね。疑いを去れよということは、ね、いよいよ信ずる心を作って行けということです。
そこで、ひとつ本気で、ね、真心にならしてもらう。ね。言うならば、親切にならしてもらう。限りなく美しゅうなろうではないか、という信心。ね。親子で夫婦で、もうとにかく、ね、合言葉のように、ね、「美しゅうならしてもらおう、美しゅうならしてもらおう」ということになる。
その言わば真心、そこから、いわゆる真心の信心から、ね、[真心」というのを「しんじん」と読みますね。そこから、いわゆるほんとの信心が生まれて来る。「この人は信心深い人じゃ」という人はだから、真心の深い人じゃということにならなければならん。真心、それが信心。そこから信じる心、ね、の信心が生まれて来るである。
神様からの、だんだんご信用の受けれるおかげを頂きまして、そこから、いわゆる神心、信心。そういう「真心」「信心」「神心」というひとつの過程をね、辿らして頂くところの喜び。それが私は、信心修行させて頂く者の中身でなからなければならんと思うです。
高芝さんの奥さんが、ね。「私がどこにお気付けを頂かなければならないか」という時には、有り難いも何もなかった。ただ痛いばっか、苦しいばっか。ね。けれどもそれを、ほんとにお気付けであったと悟らしていく時に、もう神様に、いよいよ接近しておる。そこから生まれて来るのが喜び。
まあその中身としてですね、「神様は有り難いお方じゃなぁ」と分からして頂くと同時に、「神様はまた、恐い方じゃなぁ」と、そこから私どもが、間違いのない生き方。生き方というのは、生きて行く術ということを体得さしてもらうことができる。そこから、いよいよ神の教えを受けて、神の徳を受けて、そこに「神徳を受ければ心配はない」という生活が約束される。不安のない生活が約束される。ね。
私は、もうそういうね、信心にならせて頂くということが、ひとつお互い、信心の焦点というか、目指しでなからないとね、人間の最大の言わば重大事と言われるところの「生」または「死」ね。死ぬるということ。その大事実に直面した時、私どもは慌てなければならない。ね。
私どもが、どのような場合に直面してもです、言わば、現在頂いておる「有り難い」という心が、そのままあの世にも持って行けれるという事実をね、確信さして頂くところから、死もまた、それは有り難いということになってくる。ね。
まあ、だから信心というものはね、有り難く死ねれる稽古と言うてもよいくらい。ね。そのような、言わば遠大な目指しを持っての信心の稽古をさして頂く。
「恐るべし 疑いを去れよ」というところに、今日私の申します、有り難い神様ということと同時に、神様はまた、恐いお方じゃということが分かる、ということではないでしょうかね。どうぞ。
明渡 孝